幸福とは 祈りって別に宗教的行動じゃないと思うんだよね。精神的に必要な活動じゃね

幸福とは、自分の解釈次第で生み出せるものだと僕は思う。真なる考え方、論理はこの世に存在しない。ある時、これ以外に正解はないだろうと思える考え方だと思ったことも、時が経てば疑問を抱く。であるならば、真であるような考え方を目指すのではなく、より幸福であれるような考え方を目指すべきである。選択すべきである。

どの解釈を選択するかによって、より幸福に近い状態を実現できる。

それならば、より幸福になる解釈とはなんだろう。

その鍵は、「考えないこと」にあると思う。

逆説的だが、幸福を本当に追求するならば、幸福について考えすぎるなということだ。人が考えすぎてしまうことの一つに、「過去」と「未来」がある。

いやいや、過去について分析し、未来に向かって計画を立てていかなければ良い人生は歩めない。僕もそう思う。しかし、幸福であるための解釈をするならばそれに囚われすぎないことだ。

 

過去はもうない未来はまだない。

 

アランの言葉である。相田みつをもそんなことを言っていた気がする。スティーブジョブスの点と点の話もこれに近い概念が含まれると思う。ただただ現在を生きること。もちろん、過去と未来について思考し修正を加えていくことは重要だ。けれども振り返ってみれば、過去をを分析して自分を知ろうとしすぎそれに縛られてしまった時期、未来について想像しすぎ動けなくなってしまった時期、いずれも幸福と言える状態とは程遠かった。


僕は今を懸命に生きたい。幸福であるために。

 

 

もう一つのキーワードが(これも考えないことに関するのだが、)「祈り」だ。

 

祈りは人が最後に行き着く領域である。幸福を求め続けると、思慮をやめることに帰着するのではないか。そして人は祈るのだ。

 

初詣など含め、今でも人生の中に祈りをする時間がある人は多いだろう。神が世界を創造したという逸話ははっきりと否定されているのに、なぜだろう。

ただ、僕自身も感じる。寺社の空間に身を置く時、例えようもない安らぎを感じることがある。僕はお参りの時祈りではなく宣言をしたりしているが、それでも何かを感じる。

 

それを「目に見えないパワー」であると形容すれば胡散臭くなるが、それでも良いではないか。結果的にそのパワーによって心に余裕が生まれるのであれば良いではないか。

それが真ではないにしろ、幸福へ近づく道ではないか。

信仰心が度をすぎて周りが見えなければ(まあそれも、受容できれば、一つの幸福であろうが)自由を奪われるだろうが、信仰と言わないまでも、信念はある方が良い。

 

神を信仰するまででなくとも、何かを信じ突き進むことは宗教的であると言える。

 

広い意味での宗教を否定すべきでない。知を思考する努力をやめてはそれこそ幸福とは相反する状態へ向かうが、盲目”的”であったほうが人は幸せになれるのだ。


僕は祈りたい。幸福であるために。