人間が究極的に求めるものは承認欲求?① ~自分について~

起業を考えてみて、自分の承認欲求についていろいろ考えるところがあったので書いてみた。

 

僕は高校1年生の時、自分は他人からの承認が得たいが為に全て動いているのではないか?と感じて絶望感に襲われた。そして何のために生きるか必死に探した。

 

そして見つけた。

 

まず僕は、自分が幸せでいたい。

そのために、心からワクワクすることをやりたい。

 

この思いは当分ぶれなかった。

しかしここにきてぶれた。なぜなら、ワクワク感があったはずの起業を目の前にして突然その感覚が消えうせ不安感と喪失感に襲われたからだ。

 

 

そして今とある仮定が頭に浮かんだ。

 

 

承認欲求を満たせることをワクワクすることであると置き換えていただけではないか?

 

 

例えば、起業すれば、起業している自分として認知される。それは承認欲求を満たすことにつながる。起業そのものにワクワクするのか、それとも起業の先にある承認に対してワクワクするのか、どちらだろう。

 

後者であるならば受け入れ難い事実だ。そんなことのために僕は動いているのか。と思ってしまう。

 

また友達と遊ぶ、ご飯を食べるということも言ってみればそういうことかも。

一緒に遊ぶ中で自分という存在を認めてもらうことになるよね。

恋愛とかもそうゆう面があるかもね。

 

しかし、保護者がいるためお金やら飯の心配をする必要もなく、家族から愛情を受けられる状態にいる。そして大学、サークルという居場所を作ることのできる今、欲求が承認欲求に向けられることはごくごく自然なことなのかもしれない

もしお金も安全もなければ、承認欲求とかそんなん関係なしにただただ食っていく為に行動しなけりゃならないだろうし。

 

 

人間は、というか自分は

全て承認欲求のために生きているって認められればある意味楽かもね。

でも究極的に求めていることは承認なのかもしれない。

 

 

であれば、今の自分は

どのような形で、どのようなレベルで承認欲求を満たすことが最も幸せになれるだろうか…って話になるんだろうけど。

 

 

 

そんなことどうでもいい!!

そんなことなんも考えずに楽しく生きれば幸せ!!

 

なんも考えずに楽しく生きてえ。

そうであればなんて幸せだろう。

 

 

でも考えちゃうよね。考えなければ確信を持って動けないから。動くということは他の可能性を消すということであって、それを考えることなしにできない。そんなこと言ってたら起業できないよね。

でも、そうゆう意味では平均的な東大生より多分考えずに行動してるんだよ。だって、今も、ブログ書くとかいいことかわかんないけど、家でゲームしてるよりは良さげだし思い切って書いてしまえ―――てな感じで書いてるわけだから。

 

 

# 

はい、そう、考えても無駄!!その通り。

考えても正解なんて見えてこない。じゃあ動こう。

じゃ起業するか。いやでも起業して何するの?そもそもなんで起業するの?

起業したら幸せなの?

じゃあどんな時幸せなの?

ワクワクするとき?本当に?

それ承認欲求と置き換えてるだけじゃね?

(#に戻る)

 

 

はい!!無限ループ!!

もう何がいいのかようわかりませんww

 

 

 

 

 

 

結論:もっと楽しく生きよう

楽しいって何ですか?

 

あ、また無限ループ入りそうや…